館林もめん
水と花の都…館林

上州館林。この街を、ひとはいつしか「水と花の都」と呼ぶようになりました。豊かな自然の恵みを、時間をかけながらゆっくりと成就させ、訪れる人の心をとらえて離さない、素晴らしい象徴がここにはあるのです。世界一の華やかさを誇る「つつじ園」。それは館林そのものの美しさ、そこで暮らす人の心の豊かさそのものなのです。さかのぼること江戸時代、17世紀初めの館林城主.榊原康政が、他界したお辻の方の霊を慰めるためにつつじを植えたのがきっかけだといわれています。愛する人への想い、豊かな感性が時代を超えて開花したのです。

観光マップより

館林織物のおこりは、鎌倉時代にさかのぼる、当時すでに鶉(うずら)織と呼ばれる一種の木綿織物を産出していたと伝えられている。その後宝暦年間になって、結城縞を織り、さらに享和年間になると清呉織と称する袴地が作られた。いずれも木綿を使用した織物で、ほとんどが縞か格子柄であった。これが江戸市場で大変な評判を得て、以後館林は織物の産地として出発したのです。

その後、糸入格子縞を産出し、安政の頃には縦の散らし絣を産出した。これは枷糸のまま括り染色して経糸に使用するもので邑(ゆう)楽郡中野村を中心に発達したので中野絣と呼ばれ、当時の館林を中心とした結城木綿を館林縞というようになった。

白鳥飛来湖  多々良沼
分福茶釜   茂林寺
明治初年には中野絣が、木綿の白絣に改められ大変な需要があり、大和地方の白絣とその覇を争った。明治以降になってからは木綿のほか絹糸を使用した織物も生産されるようになり、品種も多彩になった。主な織物は「板締め絣染」による絣織物(紺絣、白絣、大島絣)が全生産量の70%を占めるようになった。

大正11年は館林織物の全盛期と思われ、組合員845名、生産数量242万反が記録されている。しかし関東大震災を境に35,000台あった織機も1万数千台と減少していった。太平洋戦争と共に統制経済に移行したため、綿織物の統制が強力に行われ、伝統を誇る木綿織物に終止符が打たれた。

戦後は企業整備で、120台に減少していた織機も広幅力織機200台、小幅力織機470台、手織機3,000台に増えて復活する。昭和25年より銘仙に代わって紬織物が増えて主流の織物となっている。近年は服飾の変化による需要の低迷で産地の規模は小さくなったが、伝統的な技術、技法により商品開発を強化しつつ、綿織物一筋に歩み続けている。

群馬県繊維工業試験場 館林織物の由来より。

栗原染工所
佐藤機業店
現在も館林織物の歴史と伝統を守りぬいて、ご活躍の協力工場です。
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