久織物
二代目冨久織物ご夫妻と次代をを担う息子、洋さんと…。昔は目で盗め今は、O.J.T.、ヒット商品生まれるか、ご期待あれ!!
単純柄「十字絣」「蚊絣」「井桁絣」ゆえに仕事がストレートに商品に現われる。手括り絣は手織で柄合せと同時に手の温もりを、機械括り絣は機械織で微調整しながら柄合せを、ともに各工程細心の注意を払っています。
十字絣
機械括り(右の画像)にて、絣柄のピッチに基づき、括る間隔を設定して染まらない部分を括る。この作業を機械化されない前、あるいは、現在の重要無形文化財は、手作業にて括るわけですから技術と根気のいる作業になるわけで、能率の面からも高額になるわけです。

右の画像は、括られた糸の束を染めあげ、括った糸を解いた状態です。見るからに涼しげな十字絣柄を織り出すために、機械化されたとはいえこの様な工程を経ているのです。

十字絣と呼ぶには少し気が引ける事が有ります。それは、厳密には絣が十字になっていないところが大半で、縦と横の絣部分が重なっていないのが実情です。もうお判りと思いますが、手織ではなく機械織のため、糸の収縮や張力にばらつきが発生し、それを機械調節で修正するのは難しいのが現状です。その点、手織ですと絣部分の重なり具合を確認し、柄合わせをしながら織る事が出来るのです。
前のページ拡大アップ画像をご覧いただくと絣のずれがよく判ります。

素肌に直接洗い上りを!!
十字絣ならではの味わいです。

久留米絣織機の歴史と種類

織機は時代の流れとともに、作業効率を高め生産量を増加させ価格の低下を求め、幾多の先人達が技術改良を重ね現在にいたっているのです。

◆手織織機

いざり機

作業姿勢の形容によって、「いざり機」とよばれているもので、わが国在来の原始織機である。

高機(長機)

大和機又は京機といい。木製で作られ織手の位置を除いては全体の構造がいざり機より高くなっている。右の画像は博多織の帯を織っているもので、久留米では現存していませんでしたが、その他の産地(塩沢紬、牛首紬)等では、今でも活躍している織機です。

半機

いざり機は、織能率が悪く労力を要したので、それを改良したもの。明治20年古賀林次郎が、伊予機(高機)を改良して完成した。この半機は木製で綜絖(そうこう)ふみによって、杼口が開くもので、高機に比べれば軽量で小型であり、製織能率も数倍の効果をあげた。これにより久留米絣の量産への足がかりをつかみ、歌にうたわれたトンカラリンの杼の音が広く筑後路をにぎわした。

フランス機

明治6年(1873)京都府から派遣された佐倉常七などがフランスから持ち帰えり、翌年京都で使用したのがその最初です。当地では、明治の終わり頃取り入れられ、縞、矢根板絣、板絣を織っていた。
フランス機は、半機に「バッタン」(投杼と筬打ちをする装置)を取り付けた機で、筬框(おさぶち:筬を持っている木枠の部分)の左右に杼箱とピッカ−を備え、上方部に支点がある。
このバッタンは手織の織機としては画期的なもので、従来の半機よりもさらに進歩したもので、フランスバッタンの呼称で親しまれてきた。

足踏機

足踏機は英国人ラドクリッフによって考案され、力織機の動力の変りに足で運動をおこすように設計されたもので、足踏により機械全部を動かして、織物を織っていくように作られた織機である。旧来のバッタンよりも極めて簡単に操作ができ、性能もすぐれているので現在の手織織機として数多く使用されている。

◆動力織機

1758年英国人カートライトが発明した織機で、今日製作されている各種の力織機は殆んどこの原理から発展したといっても過言ではない。
わが国に力織機がはじめて輸入されたのは、慶応2年(1866)薩摩藩が英国のプラット社から鹿児島紡績所に据えつけ操業したのが最初である。日本製としては明治42年(1909)豊田式小幅動力織機 I式が開発され明治末から大正時代にかけて全国に普及した。しかし当久留米産地では非常におくれて、昭和9年備後の山本式織機12台を導入したのが最初である。

久留米絣技術保存会編集「久留米絣」より